今回お話を聞いた方
最初のきっかけは、両親が共働きで、小学校高学年の頃から9つ離れた弟のお世話をしていたことです。また、当時は社宅に住んでいたので、弟以外にも子どもたちがたくさんいて、縦のつながりで遊んでいたのが楽しかったからでもあります。ただ、このときはまだ保育の道に進みたいとは思っていなかったですね。
中学3年生の頃、保育園に弟を迎えにいったら、先生と子どもたちが園庭でそれはもう楽しそうに遊んでいて、ふと「保育士って楽しそうでいい仕事だな」と思ったんです。そのことを高校3年生になって進路を選ぶときに思い出し、短期大学で保育を学ぶことに決めました。
ゼミの大きなテーマは「ノーマライゼーションの追求」でした。今でいう「インクルーシブ教育」ですね。ある一定条件の人が優遇されるのではなく、どうしたら全体の幸福が追求できるか、を考えるゼミでした。
もともと、私自身が小さい頃に多動傾向があってさまざまな人に対応してもらっていたこと、今でも活字を追いづらいこと、また地元である日野市には有名な養護学校があったことなどから、障がい児教育やインクルーシブ教育に興味を持っていたのです。
最初は、地元である日野市から遠く離れた、滋賀県大津市の公立保育園に入りました。というのも、滋賀県大津市は、乳幼児健診によって障がいを早期発見し、療育も早期に開始するなど、障がい児教育に熱心に取り組んでいる自治体だったからです。
個別の園での対応には限界があるからこそ、自治体でのシステムや運営を学びたいと思ったので、あえて私立ではなく公立園に入って学びました。
年長クラスには脳性麻痺(まひ)の子が通っていたり、とにかく多様な子どもたちがいて、インクルーシブ教育を初めて目の当たりにしました。素晴らしい取り組みだと思う一方、私個人としては保育の難しさに気づいたんです。
今でこそ実践の積み重ねがありますが、当時は保育士として働き始めたばかり。担任となった3歳児クラスには、多動傾向のある子、他害行為をしてしまう子、重度の自閉症の子がいて、勉強してきた通りに対応してもうまくいかず、自分の無力さを知り、打ちのめされました。
例えば、重度自閉症の子が園庭で遊んでいたとき、急にパニックに陥ったことがありました。言葉によるコミュニケーションはあまりできないので、友達に叩かれたとか、何が嫌だったかなどを説明してもらうことはできません。保育士である私が気持ちを汲み取って言葉にすることが大事なのはわかるのですが、肝心のその子の気持ちがわからなくて……。いろいろ問いかけてみたのですが、どれも違ったようでした。
結局、その子はもどかしくなったんでしょう。私を突き飛ばして走っていってしまいました。あとで主任の先生から「友達とトラブルになったときに自分の気持ちを伝えられず、叩かれてパニックになったようだ」と教えてもらいました。
これまで言葉を当たり前のツールにしてきたけれど、それが通じない場合は、どう保育をしたらいいのか……と考え込みました。
今の園から「人手が足りないから手伝ってほしい」と声をかけていただいたのがきっかけです。大津の保育園に2年勤めていろいろ勉強になったので、今度はそれを地元で活かしたいと思いました。公立園だと転勤が多いこと、自分のやりたい保育がしづらいだろうと思ったこともあり、私立である今の園に入りました。ここで新しい取り組みをして、自治体に働きかけたいという気持ちもあったのです。
子どもが目の前で、自分らしく生きているとき「頑張ってきてよかった」と思います。
例えば、あるクラスにダウン症のAちゃんという子がいたんですね。Aちゃんは、お店屋さんごっこのときに、加配の先生と一緒に大好物のカレーを作って本物のカレー屋さんをやりました。みんなが「おいしいよ」「おかわりちょうだい」と言うのに対し、笑顔でご飯を盛ったり、カレーをよそったりしてあげて……。そのこと自体もすごいのですが、周りの子たちがAちゃんのすごさを理解して受けとめていて、そういう関係性をつくれたことが今後につながっていくんだろうと嬉しく思いました。
将来的に作業所などに通う機会があった場合も、単に物をつくったり賃金をもらったりということだけではなく、その子自身のやりがいや生きがいは、そういうところにあると思うんです。「その子がその子として認められること」「周囲に受けとめられる関係性」が大事じゃないかと。
やっぱり「対等」ということを、どういう風に子どもたちに理解してもらうかではないでしょうか。障がいを持っている子に対して、つい周囲は「助けよう」「手伝ってあげよう」と支える側の立ち位置を取ろうとしてしまうことがあります。もちろん、そういった思いも大切です。だけど、障がいがあってもなくても「みんな自分らしく生きていく対等な存在である」ということを伝えないといけない。
となると障がいのある子の発信を周りに伝え、反対に周りの発信を障がいのある子に伝える必要があるのです。こうした保育をするには、子どもの「言葉にならない思い」を読み取らないといけないんですね。これが最初はできなかった。だから突き飛ばされたわけです。
さまざまな研修を受けたり、保育関係の本を読んだりして勉強しましたが、それだけではありません。実は一番大きかったのは、17年間にたくさんの子どもに出会ったこと、他の職員が見た場面や推測を教えてもらったことが大きかったですね。「こういうことなんじゃないかな?」と言われて新たな視点を得て、見立てがよくなってきたのだと思います。
子どもを理解するためには十分な手と目、つまり人員が必要ですが、いまだに不足しているのが大変な部分だと思います。特に、保育士になってすぐは知識もスキルも未熟なので、子どもに向き合ったり分析したりするには時間が必要です。そうでないと、子どもを理解してあげられないまま保育をすることになりかねません。本当はもっと保育士の配置人数が増えるといいなと思いますね。
一番大切にしているのは、「子どもたち同士で育ち合うこと」です。大人はどうしても「教え込む」「指導する」という考えに陥りがちなのですが、子どもたちは子どもたちなりに学ぶ力を持っているので、私は「子どもたちが学べる環境をどう整えるか」を重視しています。子どもと子どもをどうやってつなぐか、については職員と勉強会をしたり、保育実践を振り返る「総括会議」で学びあったりしているところです。
例えば、散歩の行き先を決めるときも、子ども同士で意見交換して決められるようにしています。また異年齢保育においては、小さい子たちが大きい子たちのやっていることにどう興味が持てるようにしていくか。もっと言えば、0歳や1歳の子たちの視界にどう他年齢の子を見えるようにするかなど、位置関係も調整しています。
うちの園は、園長の人事もトップダウンで決めるのではなく、職員たちで話し合いをした上で決めます。前園長が定年退職することになり、理事長から話をいただいて、さらに他の職員が後押ししてくれて園長になりました。本当は現場にいたいという気持ちも強かったのですが、ありがたかったですね。
「職員が保育を楽しめているかどうか」を大事にしています。私は自分でも保育を楽しんできましたが、それは上司や先輩たちがサポートしてくれていたから。そのためには時間的な余裕が必要です。
あと、特に新人には一緒に保育をすることで、実践的なことを教えています。ただし一方で、「どうしたらいいですか?」と聞かれたとき「こうしたら?」と辞書のようには答えないこともあります。保育に正解はありませんし、自分でよく考えないと、十人十色の子どもたちに対応できなくなってしまいますから。
子どもが減っているため、先々は保育園だけで運営していくのが難しくなるのでは、と思っています。そこで、保育を中心に「総合的な福祉施設」として活動をしていけたらと考えています。例えば、子ども食堂、就学支援施設、中高生までの異年齢の子どもたちが集う寺子屋といったものを地域の方と協力して運営できたら、みんなの居場所ができるのではと思います。
それから、障がいのある子どもたちは、今も保育を受けづらい状況にあります。実際、多摩市では保護者が就労していないと、保育園に預けることができません。障がいなどがあってケアが必要な子どもはそれだけで保育が受けられるようになってほしい。こういったことは、園長として自治体に伝えていきたいと思っています。
あと個人的には、いつか現場に戻ってみたいです。園長になったら現場には戻らないのが通例だと思いますが、本当は戻れたほうが組織の風通しがいいと思います。
本来、保育という仕事はとても楽しいものだと思います。ただ、就労条件が悪かったり、人手不足だったり、研修を受けさせてもらえなかったりと労働環境が悪いと大変です。そういう環境に置かれる人が多いと「保育は大変」と言われてしまうことになります。
保育士をしっかりサポートしてくれる園なら、保育は楽しいし、私が最初に思ったように「こんなに楽しく遊んでお給料までもらえるなんて」と思えるはずです。いい園の最大の特徴は、子どもたちと保育士がいきいきと遊んでいる姿があることです。
保育士志望のみなさんにはぜひいい園を選んでほしいし、そういう園をつくりたいと思う人が増えると嬉しいなと思います。
(文:大西まお、撮影:中村隆一、編集:コドモン編集部)
針尾先生が働いている園
施設名:こぐま保育園
形態:認可保育園(189名)
設立:1973年
所在地:東京都多摩市永山3-5
※2024年12月17日時点の情報です
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